「自分で選んだ」は、本当か ── 11時間ルールが問いかける判断構造の欠陥

ある夜、午前1時 深夜1時に帰宅した社員が、翌朝の出勤を迷っている。 Slackには「明日もよろしく」と上司のメッセージがある。彼は「自分で決められる」はずだ。 制度上、強制はされていない。翌朝の会議は10時から。出なくても死にはしない。だが、出なければ何かが遅れる。誰かが困る。あるいは、困らないかもしれない。でも「念のため出ておこう」と思う。…

ある夜、午前1時

深夜1時に帰宅した社員が、翌朝の出勤を迷っている。

Slackには「明日もよろしく」と上司のメッセージがある。彼は「自分で決められる」はずだ。

制度上、強制はされていない。翌朝の会議は10時から。出なくても死にはしない。だが、出なければ何かが遅れる。誰かが困る。あるいは、困らないかもしれない。でも「念のため出ておこう」と思う。

その判断は、午前1時17分、彼のベッドの上でなされた。

スマートフォンを枕元に置き、アラームを6時50分にセットする。睡眠時間はおよそ5時間半。彼は目を閉じる。

この場面を、少しだけ覚えておいてほしい。


いま何が起きているのか

2024年末、厚生労働省の「労働基準関係法制研究会」が報告書を公表した。その中に、勤務間インターバル制度の義務化が盛り込まれた。

勤務間インターバルとは、終業から翌日の始業までに一定の休息時間を確保する制度だ。研究会の提言は、原則11時間のインターバルを法的義務とし、罰則も視野に入れるというものだった。

EUでは1993年の労働時間指令以来、11時間の連続休息がすべての労働者に法的に保障されている。日本では2019年に努力義務として導入されたが、2024年時点で導入している企業は5.7%にすぎない。努力義務は、義務ではなかった。文字通り、努力で終わった。

ところが2025年12月、この法改正案は国会提出を見送られた。高市政権が掲げた「労働時間規制の緩和検討」と衝突したためだ。規制を強めたい厚労省と、柔軟性を重視する政権。この綱引きのなかで、勤務間インターバルの義務化は宙吊りになった。

しかし、この記事で論じたいのは「義務化すべきか否か」ではない。

私が関心を持っているのは、もっと手前にある問いだ。

「休むかどうか」を、誰が決めているのか。


労働時間の問題ではない

勤務間インターバルに関する議論を読んでいると、その多くが「時間」を中心に展開されていることに気づく。11時間は長すぎるか。9時間が現実的か。業種によって例外を認めるべきか。罰則はどの程度が適切か。

これらは制度論として重要だ。だが、この問い方には、ある視角が欠落している。

それは、「時間」の問題ではなく「判断」の問題だという視角だ。

勤務間インターバルが本質的に問いかけているのは、「何時間休むか」ではない。「休むという行為を、誰がどのように判断しているのか」 である。

冒頭の彼を思い出してほしい。午前1時に帰宅し、翌朝出勤するかどうかを自分で決めている。少なくとも、本人はそう思っている。誰にも強制されていない。自分の意思で、アラームをセットした。

だが、その「自分の意思」は、どこまで信頼できるのか。


二つの立場、同じ盲点

勤務間インターバルの義務化をめぐっては、対立する二つの立場がある。

義務化推進派はこう言う。過労死の防止には強制力が必要だ。努力義務では機能しなかった。EUでは30年前から実施されている。日本だけが遅れている。制度で底を作らなければ、人は休まない。

義務化慎重派はこう言う。業種も規模も異なる企業に、一律の規制をかけるべきではない。働く個人の自由を制度が奪ってはならない。成長戦略と規制強化は両立しない。判断は個人に委ねるべきだ。

どちらの主張にも、それぞれの根拠がある。

だが、両者には共通の盲点がある。それは、「判断の質」を問うていないということだ。

義務化派は制度による強制を正当化する。だが、制度で時間を確保しても、その時間が判断力の回復につながる条件が整っているかは問わない。

慎重派は個人の自由を重視する。だが、その「自由」が行使される条件——すなわち、自由に判断できるだけの認知的余力があるかどうか——を問わない。

どちらも、「判断」そのものの構造に目を向けていない。


欧州は何を設計したのか

少し視点を引いて、EUの制度を構造的に見てみたい。

EUの労働時間指令が11時間の連続休息を義務化しているのは、「労働者がかわいそうだから」ではない。もちろん労働者保護の文脈はある。だが、制度の構造を見ると、そこにあるのはもう少し冷徹な設計思想だ。

判断能力が毀損される条件を、あらかじめ制度で排除する。

これが、EUモデルの核にある設計原理だ。

個人に「休みますか?」と問わない。代わりに、「この時間を下回る休息のあとに働くことは、制度として許容しない」と定める。判断を個人に戻さない。判断する以前の条件を、システムが整える。

この構造には、ある前提がある。疲労した人間は、自分が疲労していることを正確に判断できない、という前提だ。

認知科学はこれを「メタ認知の劣化」と呼ぶ。自分の認知状態を客観的に評価する能力そのものが、睡眠不足や疲労によって損なわれる。「自分はまだ大丈夫だ」という判断が、すでに大丈夫ではない状態で下されている。

EUモデルは、この構造的な罠を認識した上で設計されている。


日本は何を設計しなかったのか

翻って、日本を見よう。

努力義務。導入率5.7%。法改正見送り。

これらの事実が示しているのは、日本が「制度化しなかった」ということだけではない。「判断の所在」を設計しなかったということだ。

日本の職場では、「休むかどうか」は本人に委ねられている。あるいは、本人と上司のあいだの暗黙の了解で決まっている。あるいは、雰囲気で決まっている。いずれにせよ、それは明示的な設計の結果ではない。

「自分で決められる」ということは、一見すると自由に見える。だが、ここに構造的な問題が潜んでいる。

「自分で決められる」とは、「決める負荷を自分が引き受ける」ということでもある。

休むかどうかを自分で決めるとき、人はさまざまなことを考える。明日の予定。周囲の目。評価への影響。仕事の進捗。上司の期待。自分の体調。自分の限界。

これらの変数を、疲労した脳で同時に処理しなければならない。それは、判断負荷としてはかなり高い。しかもその判断が行われるのは、たいてい深夜——判断力が最も落ちている時間帯だ。

EUモデルはこの判断を個人から引き剥がした。日本モデルは個人に預けたままだ。

問題は、それが意図的な設計の結果なのか、それとも単に設計されなかっただけなのか、ということだ。おそらく後者だろう。


「自分で決めましょう」の不誠実

「自分で判断してください」

この言葉は、ビジネスの現場でよく使われる。自律、主体性、セルフマネジメント。いずれも肯定的な言葉だ。

だが、こうも考えられないだろうか。

「自分で判断してください」とは、ときに、「判断の責任を引き取りたくない」の婉曲表現ではないか。

組織が「休むかどうかは本人の判断に任せます」と言うとき、それは自律を尊重しているのかもしれない。だが同時に、判断の結果について組織が責任を負わないという宣言でもありうる。

疲弊した社員が「自分の判断で」出社し、そこで誤った意思決定をした場合、責任はどこにあるのか。

本人が「出社する」と決めた。だから本人の責任か。

しかし、その判断が行われた条件——午前1時帰宅、5時間半の睡眠、メタ認知の劣化——を放置したのは、組織の側だ。

ここに、制度論だけでは解けない構造問題がある。個人の自律を尊重する体裁をとりながら、実質的には判断の条件整備を放棄している。そうした状態を、私は設計の不在と呼んでいる。

必要なのは、義務化か自律かの二択ではなく、判断という行為そのものを設計の対象にすることだ。

それが Decision Design(判断の設計) である。Decision Designは、判断という行為そのものを設計対象とする思想だ。
その中心にあるのがDecision Boundary(判断の境界) という概念である。誰が決めるのか。どこまでを任せ、どこからを引き受けるのか。その線を、無自覚のまま放置せず、意図的に設計すること。それがDecision Designである。

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本稿は、公開範囲を基に構成したInsynergyの日本語サイト版です。詳細な議論と実装上の考察はnoteの詳細版で解説しています。

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