導入
インド南部タミル・ナドゥ州、カルールという街の一室で、若い女性がベッドの上のタオルを畳んでいる。頭にはカメラ。手元の動きを、一人称の視点で記録し続けている。1本あたり約4分の動画を、彼女は1日に90本ほど撮る。同じタオルを、ベッドの上のありとあらゆる位置で畳み直しながら。
これはアートでも実験でもない。仕事である。
Japan Timesに掲載された「The Indian workers training AI robots to take their jobs」は、いまインドで淡々と進むこの光景を伝えている。記事に登場するのは、Objectwaysというデータ企業だ。米国とインドに拠点を持ち、Fortune 500の多国籍企業を顧客に抱える。撮影された映像は専用アプリ経由で送られ、Amazon SageMakerのような機械学習基盤に流れていく。
なぜ、人がタオルを畳む様子を、わざわざ頭にカメラをつけて、何千時間も撮影するのか。
答えは、その映像の「先」にいるものを思い浮かべればわかる。Humanoid Robots――ヒューマノイドロボットだ。Morgan Stanleyは、2050年までに世界で10億体を超えるヒューマノイドが稼働しうると予測している。その多くは産業・商業用途だが、いずれは家事のような領域にも入ってくる。タオルを畳む、コーヒーを淹れる、サンドイッチを作る。Objectwaysの代表が顧客から依頼される映像として挙げたのは、まさにそうした日常の動作だった。
ロボットに人間の動きを真似させる。そのために必要なのが、人間の身体動作データである。そして世界はいま、そのデータを大規模に集め始めている。
なぜ「インドの低賃金労働」の話で終わらせてはいけないのか
この記事を読んで、多くの人は反射的に「先進国の技術のために、新興国の労働者が安く使われている」という構図を思い浮かべるだろう。それは間違いではない。記事自体、「自分たちの仕事を奪うロボットを訓練するインドの労働者」という、痛烈なタイトルを掲げている。インド政府系シンクタンクNITI Aayogも、AIをめぐる議論がホワイトカラーの雇用喪失ばかりに向き、4億9000万人の非正規労働者への影響がほとんど語られていないと警鐘を鳴らしている。
労働の問題は、確かに重い。
ただ、労働の構図だけを追っていると、もっと本質的な変化を見落とす。
それは、ロボットがいったい何を学習しているのか、という問いだ。
撮影されているのは、タオルを畳む手の動きだ。ペンや水筒やクレヨンを、ある順番で並べていく指の運びだ。これを見ると、私たちはつい「ロボットは"畳む""並べる""運ぶ"という作業を覚えているのだ」と思ってしまう。物を持つ、物を運ぶ、物を切る。そういう動作の集合を、ロボットは身につけているのだ、と。
だが、撮影の中身に目を凝らすと、この理解は揺らいでくる。
Objectwaysの撮影が、なぜ「一人称視点」――専門的にはEgocentric Data(自己中心的データ)と呼ばれるものにこだわるのかを考えてみてほしい。労働者は頭にカメラをつけ、自分の目線で世界を記録する。深度センサー付きカメラやモーションキャプチャ、スマートグラスを使い、手の動きだけでなく「その人が何を見ていたか」を丸ごと記録する。First-person video、つまり一人称の映像でなければならない理由が、ここにある。
人間がタオルを畳むとき、私たちは無意識にいくつものことを同時にやっている。タオルの端がきれいに揃っているかを確認する。しわが寄っていれば、手を戻して修正する。畳む前に、どこから手をつけるかに注意を向ける。途中で布が滑れば、そこで一瞬手を止めて、やり直すかどうかを判断する。
記録されているのは「手の軌跡」だけではない。どこを見て、どこに注意を向け、いつ確認し、いつ修正したか。その一連の流れごと残している。
これがSpatial AI(空間AI)やPhysical AI(物理AI))と呼ばれる領域で、いま起きていることの核心だ。ロボットに必要なのは、決められた軌道をなぞる能力ではない。現実の空間は、毎回少しずつ違う。タオルの位置はずれるし、しわの寄り方も、光の当たり方も一定しない。だからロボットは、その都度「どう動くべきか」を選ばなければならない。
これは、判断と呼ぶしかない動きだ。
Human Demonstration――人間が実演してみせるという行為が貴重なのは、まさにここにある。人間は、手本を見せながら、無数の小さな判断を実演している。本人すら意識していない判断を。
政府が「人間の判断」を求め始めている
この変化を、規制をつくる側はすでに感じ取っている。
政府は、自律的に動くAIエージェントに対して、誤作動やプライバシー侵害のリスクを念頭に「人間の判断を必須とする仕組み」づくりを開発企業などに求めている。総務省・経済産業省のAI事業者ガイドライン1.2版にも、その考え方が盛り込まれている。
AI Agents(AIエージェント)が提案するだけでなく、自ら実行するようになるとき、人間がどこで関与するのか。どこで止められるのか。誰がその結果に責任を持つのか。Human Oversight――人間による監督を、形だけでなく実質として残せるか。これらは、ソフトウェアのAIエージェントだけの話ではない。タオルを畳み、いずれは包丁を握るかもしれないPhysical AIにも、まったく同じ問いが突きつけられる。
物理空間で動くロボットの場合、判断のミスは画面の中のエラーでは済まない。そこで、「どこからは人間が引き受けるのか」という線引きが、設計の問題として浮上する。
ガイドラインを読み解くこと自体が目的ではない。注目すべきは、世界が同じ方向を向き始めているという事実のほうだ。集められているのは身体動作データだが、その奥で問われているのは、人間の判断をどう扱うか、なのである。
筆者が感じた違和感
ここまで書いてきて、私自身、ひとつの違和感を拭えずにいる。
Objectwaysのスタジオで、インドの労働者たちは、たしかにロボットに技能を教えているように見える。タオルの畳み方を、物の並べ方を、丁寧に、何千時間もかけて実演している。これは技能の伝承のように見える。職人が弟子に手の動きを見せるように。
だが、本当に移転されているのは、技能なのだろうか。
タオルを4つに畳む手順なら、言葉でも書ける。マニュアルにもできる。それをわざわざ、一人称の視点で、視線の動きごと記録しなければならないのはなぜか。
私には、移転されているのは技能ではなく、もっと別のものに思えてならない。むしろ、判断ではないのか。
どこを見るか。いつ確認するか。何かがずれたとき、どこで手を止め、どう直すか。人間が実演しているのは、作業の手順以上に、その背後にある判断のパターンなのではないか。
もしそうだとすれば、Physical AIをめぐる本当の競争は、誰がより賢いモデルを作るかにはない。人間の判断を、どうやって抽出し、どうやって配置するか。競争の場は、そちらへ移っている。
判断そのものを設計の対象として扱う思想
人間の判断を抽出するところまでは、すでに世界中で始まっている。インドのスタジオは、その最前線にすぎない。問題は、その次だ。抽出した判断を、いったい誰に、どこまで持たせるのか。ロボットに任せる領域と、人間が引き受ける領域の境界を、誰がどう引くのか。
ここを無自覚のまま放置すると、「気づいたらロボットがすべてを決めていた」という事態が起こりうる。だからこそ、判断そのものを設計の対象として扱う思想が必要になる。
それが Decision Design(判断の設計) である。
Decision Designは、判断という行為そのものを設計対象とする思想だ。その中心にあるのがDecision Boundary(判断の境界)という概念である。
誰が決めるのか。
どこまでを任せ、どこからを引き受けるのか。
その線を、無自覚のまま放置せず、意図的に設計すること。
それがDecision Designである。
ここから先では、「Physical AIが学習しているのは技能ではなく判断である」というテーマを、Decision DesignとDecision Boundaryという2つの概念を使って具体的に掘り下げていく。マンゴーを切るロボットを例に、AIが判断する領域と人間が判断する領域を、どこで、どう分けるのか。Data Annotationの先にある、本当の論点とは何か。
詳細版について
本稿は、公開範囲を基に構成したInsynergyの日本語サイト版です。詳細な議論と実装上の考察はnoteの詳細版で解説しています。